日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/1/30)

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 7 фев 2025
  • 2025年1月30日(木)
    【旧約聖書】
    主はわが力。ハバ3:9(協)
    【新約聖書】
    だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。IIコリ4:16(協)
    ---------------------------------------
    「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
    日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
    「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
    釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
    御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
    どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
    ----------------------------------------
                     
     使徒パウロの特徴的な考え方の一つに、イエスの命を自分の体の内に宿しているという考え方があります。この考え方をよく表しているのが、コリントの信徒への手紙II、4章からの内容です。聖書協会共同訳聖書では、「土の器に納めた宝」という小見出しがつれられていますが、「土の器」とはもろく壊れやすい器のことです。松本清張の小説に『砂の器』という作品がありますが、これも、どんなに頑張っても作っても、脆く崩れ去ってしまうもの、人間の宿命を表しているのでしょう。土の器とは、私のことを指しています。具体的には、私たち人間の体です。その、もろく壊れやすい体のなかに宝を納めている。その宝とは、イエスの命なのです。ですから、土の器が壊れることで、そのなかに納められていた宝が現れるということです。私たちの肉体が滅びることで、そのなかにあったイエスの命が姿を現すのです。
     パウロは10節からこのように記しています。「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。」そして16節からが本日のみ言葉、「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」と書かれています。私たちの肉体が滅びても、つまり死を迎えても、その信仰による歩みは、内なるイエスの命を日々新しく、新鮮な命とさせるのです。
     街を歩いていると、タクシーが走っているのを見かけます。客を乗せておらず「空車」となっているタクシーは、流しのタクシーを捕まえようとするお客を探しているのでしょうか、走り方が自信なさげに見えます。しかし、お客を乗せているタクシーは走り方が違います。目的地に向かって勢いよく走っています。お客を乗せたタクシーは迷いがありません。信仰を持つとは、私たちの体の中にイエスを宿らせることです。それはお客を乗せたタクシーのように、イエスの命を宿した私たちの歩みは、ぎこちない、自信なさげな歩みではなく、目的地に向かって力強く一直線に走ることができるのです。ハバクク書には「主はわが力」と書かれています。私たちは、自分たちの体に神さまを招き入れたいと思います。そうすることで、私たちは力強く、迷いなく、この世を一直線に歩んでいくことができるのです。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

Комментарии •